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以下は、2012年7月8日発行の土沖的総悟お誕生日の寄せ書き「愛でなせェ!」についてのお知らせです。 旧情報になりますので、ご注意ください。 執筆者さま一覧 ※英字あいうえお順、敬称略。 蒼依 あきら/夜 餡蜜 えびゆき きゆ 桜川青 シオラマサムネ 栞 露崎カオル 七雪 鼻気 ゆん ※申し訳ございませんが、執筆者様の募集はしておりません。ご了承ください。
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5 「聞こえてなかったのはアンタの方でしょ」 突入まであと僅か。習慣通りに腕の時計を確認する俺に話し掛けたのは、何事も体内時計で事足りる一番隊隊長だ。 彼の習慣は俺のすぐ横に立ってそれを眺め、たわいがない話を二言三言すること。この後、彼は定位置につく。 総悟の騒動があってから初めての討ち入りを迎えた。またこんなときに妙なことを言い出したと苦虫を潰したが、それは少なからず興味を惹かれる物言いだった。 「あんたって結構人の言うこと聞いてねぇですぜ。考え込んじまったり、かと思いや一人で突っ走ったり。俺が生返事すると目くじらたてんのに、あんたなんか、返事もしねぇことざらにあらあ」 言われてみればそういう性分かもしれない。何かと短絡的で極端なところがある。自分はひとりだと肝に銘じて人に頼れないところがある。 総悟の耳が聞こえなくなって、山崎の報告を聞いていたときも、総悟に暫くの暇を命じたときも、心ここにあらずの体で状況や相手と向き合う訳でもなく、自分自身の中で勝手な思いを育て、侵食されていったのかもしれない。 外界を断ち切って篭り、おかしくなったのは明らかに己の心であり、本当の意味で聞こえていなかったのは己の耳であった。 特に総悟と身体を繋げたときの身勝手は酷く、本来ならば最も開けっ広げに交わし合わなくてはならない行為をたかが彼に起きた、それも故意でもない事故のような異変で取り乱し、身体を貪った。強姦であったと糾弾されても仕方がない。 多分、総悟はそれを何気ない雑談をもって暗に言及しているのだ。黙っていれば、また間抜けなひとりよがりを俺は繰り返すだろうから。それを彼は曖昧にしないで、ここぞとばかりに遣り込めてきた。今ははっきりと聞こえているから耳が痛い。けれど、これもひとつの情を交わし合う間柄ならではの遣り取りなのだと、密かな優越感に浸るくらいには余裕があった。 だから、ぺらぺらと良く口が回る総悟をしたいようにさせたまま、片手間で煙草の火をつけた。ところが勝手知ったる彼は明白に悪ノリし、煙草の煙を吸い込んだことを後悔するほどに俺は咳込むはめになる。 「あんた、俺が聞こえねぇと思ってあん時すげぇ独り言みたいなの零しながらセックスするもんだから、……」 「……っ!?」 「あれね、ずっと唇見てたから何言ってるか分かってたんですよ。酷ぇこと言ってた。かと思いや、魚の開きみたいに俺を裏返して、今度は泣き声みたいな情けない譫言が聞こえてきて……もう、キモいし、ウザいし……」 「……?!?!……総悟!」 咳込んでいたから遅きに失したが、はたっ!、と気がつき、慌ててどすを利かせた声音で総悟を制した。即刻「そんなこと、ぺらぺら喋んじゃねぇ!」と、更に声を落として、頭を叩く。他の隊士たちとは離れているとはいえ万が一、誰かに聞かれたらどうすんだ!と、その思いを込めて睨めば、「暴力はんた〜い」と間延びした抑揚のない調子でふざけ、大袈裟に頭をさすっている。 何が暴力反対だ。これから殺し合いしようってときに。 いつもそうだ、お前は減らず口ばかり。俺にばっかり逆らって。あんなに心配させといて、こうしてもうケロッとしている。 「なあ、お前何であんなに素直に従ったワケ?お前があんなにしおらしくするからややこしくなったんだろうがよ」 自分で驚くほど、案外すんなりと尋ねたかったことが口を吐いた。まるで拗ねたような口ぶりになってしまい、すかさず総悟が忍び笑いするように口に手をやり、俯き加減で肩を細かく揺らす。そして一頻りくつくつと笑ってから、ふっ、と不意に顔を上げ真正面から俺を見た。 「あー、こりゃだめだなって思ったんですよ」 「……」 その表情は真剣というより穏やかで、菩薩に諭されているような気分がした。しかし、まるで真意は掴めない。俺はぽかんとする。 「あんた、号令掛けるでしょ。あれ。あれが聞こえねぇんじゃ、だめだなぁってね、……何となく思った」 「……お前がそんなこと気にするたぁ思わなかった」 「験担ぎとかじゃないですよ。臆病風が吹いた訳でもねぇ。上手く言えねぇけど、最初っからだめだってね、俺んなかのどっかが言うこときかねぇから、それに刃向かうほど野暮じゃねぇってことですよ」 それもこいつの本能か。 もう驚くことも呆れることも、コイツに関しちゃ無駄なのだ、と自然に頭が受け入れる。 無意識に人間の機能を無視して自己防衛出来るという、アレ。 もし、そうなら……。 「何、にやけてやがんでィ」 「……いや、上等だと思ってよ」 「幸せなお人でさ」 煙草を挟んだ手を口にあてたまま、お返しに俺も忍び笑ってやると、総悟はぎょろりと大きな瞳を向け、つんと唇を尖らした。ますます、くつりと俺が機嫌を良くすれば、総悟はぷいと顔を背け俯いてしまった。 ああ、照れているのだろうな、と思う。こんな年相応に愛らしい総悟の様子を見ていられるなら幸せだと思う。 嵐の中でひとり彼は外界から感性を断ち切っているのではない。 嵐のような風向きを凪いだ風に変化させることが特異に出来るだけなのだ。 けれどそれはお前の声があるからだと彼は告げる。 情を交わした挨拶のように愛おしいと伝える。 死へ繋がる衝動さえもまるっとひっくるめて。 そう、静かに、時に情熱的に。 「そろそろいくか」 「へい」 一声がきこえたとき きみの衝動が揺すぶられるとき 了 2013.10.27. そごっぷち 「もっと愛でなせぃ」寄稿
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古の格言にも、愛は逢いより出で、哀よりも「あっ、いぃぃ…」と言いますが(言いません)、筑後川の重要テーマは「愛」です。テキストでは遠慮なく「愛」という言葉が連呼されています。すべて抜き出してみましょう。 I みなかみ 裸の愛が II ダムにて 愛の水かさが 愛の川よ 愛するために あなたの愛を 育てられた愛が III 銀の魚 --- IV 川の祭り 愛を呼びおこせ はげしい愛を V 河口 --- 半分くらいは、まぁ自然な表現としても、裸の愛って、しらふの会話で出てきたら、人格疑ったほうがいいですよね。酔ってるときの会話で出てきたら蹴飛ばしても許されると思います。 裸の愛って何でしょう。 若い頃の、ストレートで着飾っていない、そのままの感情の吐露。目先の落差を躊躇せず滑り落ちていく上流域での川の流れに、人類愛か男女の営みか知らないけど、読み手が理解してみたい愛の形を重ねてのことかと思うけど。 わたしは、ここについて、考えすぎずに音楽重視で通り過ぎたいと思っちゃいます。ただでさえ私はリビドーがドライビングフォースだから、こういうところには冷静に、冷静に。
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愛鳴之藩国現状とお願い 現在、愛鳴之藩国は多大な被害が発生しております。 現在確認できているだけでも七層貫徹し、国土80%が灰燼になり、人口の98%もの人が亡くなりました。 そして生き残った2%の人々の中には小さな子供や負傷されている方など、誰かの助けが必要な方がいます。 お願いします。みなさんの力を貸してください。 動ける方はどうか、助けが必要な方のための力となってあげてください。 ちょっとしたことでいいんです。 泣いている子供がいるなら話しかけて安心するように手を握ってあげる。 話が得意なら色んな人に話しかけて元気をあげる。 怪我をしている人がいるなら肩を貸して治療できる場所まで付き添ってあげる。 医療の心得があるなら治療を手伝ってあげる。 これだけでも力になります。 「なんで自分がやらなきゃいけないんだ」 そう思う方もいると思います。 確かにそのとおりです。動ける方も被災された方なのですから。 しかし、どうか力を貸していただけないでしょうか? 被災されたみんなで力を合わせて助け合っていただけないでしょうか? どうかよろしくお願いいたします。 愛鳴之藩国摂政 花井柾之
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そもそも愛とはなんなのか? 概説 「愛」の意味は、時代とともに多様化してきている。 最初に辞書における語義の説明に軽く触れ、次に、伝統的な用法、各宗教における説明で人々の間に定着している意味を解説し、その後、現代の多様な用法まで、歴史に沿って解説する。 辞典などでの解説、主要な語義 広辞苑では、次のような用法をあげている。 親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり。 男女間の愛情。恋愛。 大切にすること。かわいがること。めでること。 (キリスト教)神が、自らを犠牲にして、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。アガペー。 (仏教)渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。「十二因縁」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる。 ――wikipedia「愛」より抜粋。 近年、よく某巨大匿名掲示板では「愛」という言葉を見るようになった。 「○○愛してる」や「愛・おぼえてますか」などや、「愛」とは少し違うかもしれないが、 「○○は俺の嫁」「○○がかわいすぎて生きるのが辛い」など多数ある。 そこで私はひとつの疑問にたどりついた。 「愛」とは一体なんなのか? 一つの人、物事に愛情を注ぎ続けるのが「愛」? これらはよく三次元ではなく、二次元キャラに向けて言われている。 若者は少し、「愛」というものを軽く見すぎではないのか? 愛とはそう、「love heart」である。 マクロス7には「突撃ラブハート」という歌があるのはご存知だろうか? つまり「愛」というものはFIRE BOMBER。 マクロス7>>>>壁>>>F というのは変えられない事実な訳だったのだ!! ボンバー!!!1 ・この社会に存在している恋愛は、二つの気まぐれの交換と、二つの表皮の触れあいにすぎない。 byシャンテフォール 日本語でおk
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愛について 愛 提供 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 愛(あい)とは、崇高なものから、恋愛、そして欲望に至るまで様々な意味で用いられる概念である。 広辞苑では、次のような用法をあげている。 * 親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり * 男女間の愛情。恋愛 * 大切にすること。かわいがること。めでること * (キリスト教)神が、自らを犠牲にして、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。アガペー。 * (仏教)渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。「十二因縁」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる 日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま、を意味した tRSNaa 人間の最も根源的な欲望であり、原義は「渇き」であり、人が喉が渇いている時に、水を飲まないではいられないというような衝動をいう。 それに例えられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在しており、そこでこれを「愛」とか「渇愛」と訳し、時には「恩愛」とも訳す。 広義には煩悩を意味し、狭義には貪欲と同じ意味である。 また、この「愛」は十二因縁に組み入れられ、第八支となる。前の受(感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。 愛は恋や好意に比べ、深く、強く、崇高であると考えるものが多い 愛は創作活動の源にもなる。大好きなもののためになら大きな力を発揮できたりする。それに加えて今までの歴史の中で数え切れないほどの愛を題材にした作品が生まれている。 愛は必ずしもすべて相手にとって好ましい感情とは限らない。それが元で嫉妬など、負の感情が起きることがある。母性愛は往々にして子供をがんじがらめに縛り付けるように働く 自己愛 社会的な人間にとって根源的な愛の形態の一つ。自分自身を支える基本的な力となる。 心理学者らからは、自己愛が育って初めて他人を本当に愛することができるようになる、としばしば指摘されている。自分を愛するように、人を愛することができるという訳である。自分を愛せない間は、人を愛するのは難しいと言われる。
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ヨハン早稲田キリスト教会 文書宣教部がセレクトして、歴史上のクリスチャンや聖書のご紹介を致します。 Merry Christmas! 「クリスマスとは神様のLove Story」 今日は三種類の愛を紹介します。それは、「If~もしも」の愛、「Because~だから」の愛、そして「Inspite of~にもかかわらず」の愛です。三種類の愛を比較しながら、父なる神様の愛を分かち合ってみましょう。 1)「If~もしも」の愛 「もしも」の愛というのは、「もしもあなたがお金持ちだったら」「もしもあなたが美しかったら」「もしもあなたが優しくしてくれたら」あなたを愛しましょうというものです。いうなれば条件付きの愛です。「もしも」の愛は、相手に条件を付けて、「こうでありなさい」「ああでありなさい」と要求していくことです。結局のところ「もしも…だったら」というのは、相手にはそれだけの条件が備わっていないのなら、「私はあなたを愛さない」ということになります。子どもに「もっと成績がよければ」、恋人に「もっと顔がよければ」「もっとお金持ちなら」愛してあげると言うのは、愛の言葉でなく、「今のあなたは駄目だから、私はあなたを愛さない」という残酷なメッセージになってしまうでしょう。 2)「Because~だから」の愛 「だから」の愛というのは「あなたは頭がいいから」「あなたは地位があるから」「あなたはみんなに人気があるから」愛するというものです。これは「もしも」の愛よりももっといいかもしれませんが、やはり、何らかの理由や根拠に基づいて、相手を愛しているのです。子供は、かわいいから誰もが愛するでしょう。しかし、「かわいいから」という理由や根拠は、いつまでも続くものではありません。成長するにつれて親に反抗し、ちっともかわいくなくなってしまいます。頭のいい人も、いつかアルツハイマーになるかもしれませんし、社会的地位はいつまでもキープできるものではありません。若さも、力も、お金も、みんな変化していくものなのです。変化するものを根拠にした愛は、うつろいやすい愛で、いつか破綻がやってくるのです。 私たちは「もしも」の愛や、「だから」の愛によっては、本当に心安らぐことはできません。「もしも」の愛に応えるには、必死で努力しなければなりません。私たちは自分のうちに自分でも愛せない、いやなものを持っていますので、「だから」の愛によっては、自分が愛されているという確信を持てないのです。私たちに必要な愛は「にもかかわらず」の愛です。相手に条件を求めない、相手に理由や根拠を求めない愛、つまり、無条件の愛を、私たちは必要としているのです。 3)「Inspite of~にもかかわらず」の愛 神様の愛は「にもかかわらず」の愛です。キリストは、私たちがまだ罪人であった時に、私たちのために死んでくださったと教えています(ローマ5 6-8)。イエス・キリストは、十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」と祈られました。イエス・キリストは、彼に背き、彼を苦しめ、彼を痛めつけている人々のために、その命を投げ出されたのです。もし、私たちが誰か他の人のために自分の命を投げ出すとしたら、それは、きっと、私たちに良くしてくれた人、愛してくれた人でしょう。誰も、自分に悪いことをした人、自分を苦しめた人のために死ぬことなどできません。しかし、イエス・キリストは、私たちが罪人であった「にもかかわらず」私たちを愛して、十字架の上で死んでくださったのです。これこそ本当の愛なのです。 人は誰しも「にもかかわらず」の愛を求めています。しかし、そのような愛は、どこにでもあるわけではありません。人の愛は、多くの場合「もしも」の愛や「だから」の愛です。それらは条件付きの、かけひきや条件付きの愛です。「まず、あなたが私を愛しなさい。そうしたら、わたしもあなたを愛してあげましょう。」と、常に相手から求める愛です。しかし、神の愛、キリストの愛は違います。まず神が私たちを愛してくださったのです。神は、私たちが神を愛したから、私たちを愛してくださるのではありません。神は、私たちが神の愛に感謝もせず、それに背を向けていた時から、なお、私たちを愛し続けていてくださったのです。神の愛は永遠の愛、無限の愛、無条件の愛です。2010年のクリスマスに、この愛を知り、受け取るみなさんになることを願います。 Total Hits - Today Hits -
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愛(あい) 世界大百科事典、島崎敏樹・藤野渉・小林珍雄の記述 ある人によって価値ありとされた対象によって、彼がひきつけられるときにおこる精神的過程を愛とよぶ。しかしその場合、愛の対象が客観的に価値あるものである必要はない。むしろ愛は対象の価値をたかめるものといえる。したがってそれは悟性的認識ではなく、非合理的創造といえる。愛の対象は自分の向う側に立つ人間とは限らず価値が発生しさえすれば愛はそこにあるのだから、自己への愛もあり、事物への愛もある。このように対象によって愛は「自己愛」「没我愛」「精神愛」「心情愛」あるいは「エロス愛」「性愛」などに分類できる。「自己愛」は自分の価値をたかめたい欲望から発するもので、この欲望が中断するとき、その変形として愛の対立者である憎しみがうまれる。「没我愛」はひたすら対象の価値高揚にこころざすもので、これを真の愛とよぶ人もある。「精神愛」は神への愛、真理への愛、人類愛、祖国愛、友情、親子の愛などがこれにあたり、「没我愛」とともに利己心とは根本的に対立する。理想的にいえば、ここでは愛の体験に情緒性と肉体性がはいってこない。「心情愛」あるいは「エロス愛」はふつうには男女間に成立し、期待、あこがれ、熱情などの心情的体験を通して我と汝とが近づきあう。この愛の底には「性愛」がある。それゆえ恋愛における心情的方面を重視する人は、恋愛を人間的とし、性愛的感官的方面に着目する人は、それを動物的と考えるのである。しかし純粋な「性愛」には心情的体験はなく、生物学的事象としてあつかわれる。なお、「精神愛」「心情愛」「性愛」の系列を下のほうからながめ、性的エネルギー(リビドー)の作用が根本になってすべての愛が営まれると考える学者もある(たとえばフロイト)(島崎)。 これらの愛をつうじて特徴的な点をいくつかあげれば、つぎのとおりである。すなわち愛はその喜びが対象をそれ自身のために価値ありとする点で、対象が主観の衝動や要求、関心をみだすゆえに感じられる快と区別される。したがって愛は対象の個性を尊重し、相手の人格的尊厳を確保する。また愛はさまざまな情緒や衝動を変形させ包摂する同因として、共通普遍の善をめざす精神生活の究極的な徳とみなされる。さらに愛は本能的力として個人や種族生命保存という至上の目的に結びついて形成規定された根ぶかい努力的傾向であり、同時に愛は知にとっても本質的であり、知は愛であるとか最上の理由は愛の理由、つまり同情共感的な透察からうまれた理由であるなどといわれている。愛について論じた思想家は数多いが、そのなかでプラトンの説く愛erosは善きものの永久的所有へ向かい、肉体的にも心霊的にも美しい者の中に生殖し生産することをめざすものとされた。滅ぶべき者の本性はあたうかぎり無窮不死を願うが、それはただ生殖によって古い者のかわりに常に他の新しいものを残してゆくことによってのみ可能である。この愛を一つの美しい肉体からあらゆる肉体の美へ、心霊上の美へ、職業活動や制度の美へ、学問的認識上の美への愛に昇華させ、ついに美そのものであるイデアの国の認識にいたることが愛の奥義である。アリストテレスの説く愛philesisは相互応酬的でかつ相手方に知られている好意、しかも各自にとっての善や快という有用性のゆえにではなくて、善き人々である限りにおける相手方にとっての善を互いに願望すること、したがってそれは徳を有することにおいて類同的な、互いに自ら即して善き人人の間の親愛である。かかる究極的な愛はまれでもあり、時間を要し昵懇を重ねることが必要だという。スピノザによるとすべてのものは自己保存の努力conatusをもち、人間は心身をより大なる完全性へ移すこと、すなわち喜びを欲望し悲しみをさけ、喜びを与える外物を愛し、悲しみを与える外物を憎む。かれは欲望、喜び、悲しみという3つの根本感情から幾何学的にさまざまな愛と憎しみを分析する。ところでわれわれの精神が事物を永遠の相のもとに、すなわち必然的連関において認識することは、精神をより完全にするから喜びであり、この十全な認識は事物を神(=自然=実体)の様態として認識することであるから、その喜びは外部の原因としての神の概念を伴ない、神への愛である。それは神の認識と一つになっているから神の知的愛amor dei intellectualisである。カントは傾向性(好ききらいなど)にもとづく感性的な愛と理性的意志にもとづく実践的な愛とを区別し、後者のみが道徳的とした。傾向性としての愛を命ずるわけにはゆかないから、隣人への愛とは隣人に対するすべての義務をすすんで遂行することである。そして道徳的法則への尊敬がそれへの愛に変わるのが同等的心術の最高の完成であろうとした。マルクス主義では人々が協同して自然と戦い衣食住の生活手段をますますゆたかに生産する労働の生産力の発展と、これによる物質的ならびに文化的精神的な生活の向上、豊富化、それにもとづく人間のもろもろの可能性と潜勢力の自由な発展を愛し、そのための生産闘争と社会闘争における働く人々の同志愛を強調する。また人間に寄る人間の労働の階級、つまり人間的なものの非人間化を最も憎み、愛の憎しみに重点をおいている(藤野)。 キリスト教においては、愛はこの宗教が救いの宗教、愛の宗教といわれるほどに、中心的地位を占めている。キリスト教でいう愛とは、限りなく善である神を万事にこえて愛し、また神のために他人をもおのれのごとく愛する超自然的徳である。この意味での愛は、要するに人間の意志を神の意志に一致させる努力のことである。したがって神を愛するとは、神の啓示したおきてを守り、罪をさけ、万事をこえて神の意志を第一に重んずることをいうのである。キリスト教を救いの宗教というのも、罪からの救いを達成させる宗教という意味であるが、罪ということも要するに、愛に反することをさすものにほかならない。すなわち愛すべきものを愛せず、愛してはならぬものを愛し、多く愛すべきものを少ししか愛せず、少ししか愛してはならぬものを大いに愛するときに、罪がうまれるのである。まことの愛をたたえて聖パウロもいっている。「われたとえ人間と天使との言語を語るとも、愛なければ鳴る鐘。ひびくシンバルのごとくなるのみ。われたとえ予言することをえて一切の奥義一切の学科を知り、またたとえ山を移すほどなる一切の信仰を有すとも、愛なければ何物にもあらず、われたとえわが財産をことごとく分け与え、またわが身を焼かるるために渡すとも、愛なければいささかもわれに益あることなし」(コリント前書13の1以下)。神を愛するがゆえに、また隣人をもおのれのごとく愛し、汝の敵をも愛さなければならない。キリストのおきてはこの2つの愛に要約されている。それゆえキリスト教は愛の宗教とよばれる。隣人愛においてもその人の救いを祈り助けることが主で、いわゆる慈善は従である(小林)→プラトニック・ラヴ、→慈悲 大日本百科事典、荒正人の記述 愛の原義は、物をめぐむことであり、のち、いたわる意味に転じた。いたわりは、日本独特のあわれの意味もあるが、同時に病気にも使われる。病人をあわれむ意からであろう。中国でも、いつくしむ、あわれむ、したしむなどの意味に用いられた。愛を自己の思想の中心としたのは、孟子で、「惻隠之心仁之端也(そくいんのこころはじんのはじめなり)」(『孟子』公孫丑上)と主張した。この場合の仁は、親しむという意味から生まれた。仁は需要を貫く根本思想であるが、墨子は親族と他人を区別しない平等の愛を唱えた。他方、仏教上の言葉として、愛染・愛執・愛欲(慾)などという語があるが、この場合の愛は、サンスクリットのルバイヤーチlúbhyatiを訳したもので、欲望の意味である。インド=ヨーロッパ語族では、愛はラブloveであり、強い愛着の意味に用いられる。西洋ではラテン語のアマトリウスamātōriusという言葉が用いられるが、これは異性間の愛情を意味する。これに対し、ギリシア語のアガペーagapeは、同じ愛でも、神と人間の関係を示すものであり、キリスト教全体をおおう主題となった。同じloveでも、キリスト教が移入されると、その内容に本質的な変化が生じた。キリスト教でも、『旧約聖書』と『新約聖書』では異なり、『旧約聖書』では、人間の創造にはじまり、「苦難のしもべ」(『イザヤ書』53)となった。つまり、愛は自己放棄的・自己犠牲的な性格を示すようになった。『新約聖書』では、ギリシア語のなかからエロスerosという言葉を避けて、アガペーという言葉を選び取った。前者は、自己中心的であるのに対し、後者は他者本位の純粋な愛である。アガペーはイエス=キリストにおいて現実化した。両者はアウグスチヌスにおいて、総合され、中世のキリスト教の根本的理念になったが、ルターはこれを改訂した。ただし、プロテスタンチズムでは、愛の理念は必ずしも明確でない。ヒューマニズムと融合して、微温的になったことも否定できない。明治以後、日本に移入された愛の理念は、この系統に属する。 グランド現代百科事典、松浪信三郎の記述 1.価値あるもの、価値のありうるものにひきつけられる気持。あるいは、他のものへのいたわりの心。2.キリスト教で、神が罪深い人間に救いを与える心。アガペー。3.プラトン哲学で、イデアに近づこうとする心。エロス。4.仏教で、五官上の欲望をむさぼる煩悩。5.儒教で、敬いの心をもって肉親に接する気持。仁がその中核となる。6.性的な欲望または愛欲。7.愛蘭の略。「愛」の古字は「<表示不可文字>」で「心を<表示不可文字>る(おくる)」の義。そこから「人に物を贈る」→「(人に)めぐむ」→「(人を)あいする・(人を)いたわる」と転義した。 愛多き者は則ち法立たたず(句)威厳が足りないとどうしても下の者がつけあがるということのたとえ。『韓非子・内儲説』によることばで、「愛多き物は則ち法不立、威寡き(すくなき)者は則ち下上を侵す」により。すなわち「寵愛する者が多いと法が励行しにくく、権威が弱いと下の者が上にたてつく」ことをいった言葉。☆愛は、一般的にわれわれが自分にとって善いと認める対象に対していだく感情をいうが、この場合には、愛の対象は、必ずしも人格的存在は限らない。「山を愛する」「動物を愛する」「音楽を愛する」など。しかし、愛は本来、人間相互の間において成立する感情である。愛とは、自分にとって好ましい相手に対して、その人の身に善くあれかしと願う心情、およびそこから発現する行為をいう。恋愛、夫婦の愛、親子の愛、友愛、隣人愛、人類愛などにおいては、愛する主体も、愛される相手も、ともに人格的存在である。神の愛といわれる場合には、神が人格的存在と考えられている。「愛と人格」人格相互の間に成立する愛は、ブーバーの指摘するように、「私―それ」の関係ではなく、「私―あなた」の関係に基づく。そこでは、愛する者も愛される者もともに主体である。相手を事物のように対象として愛することは、もはや真の愛ではない。愛の理想においては、「私」の主体性と「あなた」の主体性が両立したまま一つに結ばれるのでなければならない。そこに愛の矛盾があり、愛の葛藤が生じる。あくまでも自己の愛をつらぬこうとすると、相手は主体性を失って単なる対象に堕する。反対に、相手の主体性にわが身をゆだねようとすると、自己は主体性を失って単なる対象に堕する。いずれの場合にも、愛は挫折に終わる。この挫折を乗り越えて愛の理想に近づくことは、絶えず新たにくり返される人間的な企てである。「西洋の愛」愛の理想を歴史的に見ると古代ギリシアでは、愛はエロスまたはフィリアという語で言い表されている。エロスはもともと男女間の性愛・恋愛を意味し、フィリアは友愛を意味する。エンペドクレスは愛(フィリア)と憎(ネイコス)を万物生成の二原理として立て、四元素の結合と分離をこの二つの力に帰した。ソクラテス、プラトンは、真理への欲求をひゆ的にエロスと呼び、アリストテレスは知恵に到達しようとする欲求をフィロソフィア(愛知)と呼んだ。キリスト教では、人類に対する神の愛、および人間相互の自己犠牲的な愛を、ギリシア語でアガペーと呼び、エロスおよびフィリアと区別した。すなわち、イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5.44)と敵をも愛する愛を説いた。さらに二つの大きな<表示不可文字>命(いましめ)として「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」「自分を愛するようにあなたの隣りの人を愛せよ」(マタイ22.36―39)をあげ、「これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22.40)といっている。そしてまた、あるときには、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15.13)と教えた。また使徒パウロは「山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(コリントⅠ13.2)、「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(コリントⅠ13.13)と説き、ヨハネは「神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます」(ヨハネ第Ⅰの手紙4.16)と教えた。このアガペーは、中世のキリスト教的世界では、カリタスと呼ばれ、倫理の根本原理となる。しかし近世になると、愛の思想は神学的な束縛から解放され、現世的な恋愛の自覚が高まると同時に、神を仲介としない人間愛・人類愛の思想が生じてくる。デカルトは愛を人間の基本的な情念の一つと考え、「愛は精気の運動によってひき起こされる霊魂の感動の一つであり、これの感動は霊魂をして、自分に適すると思われる諸対象に、好んで自己を合致させる」と規定している。パスカルは身体の秩序、精神の秩序、愛(シャリテ)の秩序という三つの地中所を立てた。この三秩序は、エロス、フィリア、アガペーの三段階に対応するともいえる。スピノザの説く「神への知的愛」は、事物の十全な認識によってひき起こされる愛である。ニーチェの「運命への愛」は、未来においても、過去においても、全永遠にわたって、何一つ別様に持とうとは欲していないことである。キルケゴールは、愛の矛盾を徹底的に追究し、現代の実存主義に大きな影響を与えた。フロイトは愛の権底にリビドー(性欲衝動)の存在を仮定した。「東洋の愛」東洋における愛の思想は、儒教の説く「仁」、墨子の「兼愛説」にまでさかのぼるが、他方、仏教では、自己愛に基づく現世的な愛の諸相を煩悩して退け、宗教的な意味での無条件な愛を「慈悲」と呼ぶ。慈悲は、マイトレーヤおよびカルナーの二語を漢訳した語で、深い友愛と、他人の苦悩に対する共感とを意味する。 世界文化大百科事典、村治能就・金岡秀友の記述 愛はつねになにかを新たに生み出していく働きである。この働きには二つ以上の力が結合し協同する。1.自然の段階では、雌雄の両極が引き合い、働き合う性愛の形をとる。ギリシア語のエロスはこれを表わしている。自然的なエロスは生殖と成長の形で前進する。人間の段階でも、この愛は肉体の欲求と根源的に一つとみられているが、プラトンは、『饗宴』の中で、その前進する働きを上昇過程でとらえ、自然的・肉体的な愛欲ないし恋愛から美しいものの制作やよい行為、さらに知識(真理への認識)への愛(哲学)へとたえず物的なものから浄化されながら、ついに突如として美のいであの神秘的な観照に至る道を説いた。これがいわゆるプラトニックラブである。肉体からの精神の浄化は、知情の愛と天上の愛を分ける。ルネサンス初頭では、キリスト教を背景にこの区別が強調された。また、上昇する愛は豊かさ(完全さ)を求めながら、満たされてもなお貧しさ(不満・不完全)を残すから、プラトンはこのエロスをペニア(欠乏の女神)とポロス(富有神)の間に生まれたダイモン(魔神・半神)として、神話的に物語っている。このギリシア的なエロス文化生産の力でもあって、現代、再び盛んに活動している。2.これに対して、生まれたもの(子)に対して生むもの(親)からの、いわば上からの愛がある。これがアガペーである。この愛も母性愛と父性愛に分けられる。聖母は前者を代表するが、キリスト教の創造神は父性愛を代表する。この神の愛のもとに、神の子たちである人間どうしの隣人愛がなりたつ。これは、アリストテレスが友人間に働く愛として尊重したフィリア(友愛)に対応する。3.フィリアは、もと自己愛を中心にして自己と同列に存在する他者の自己を同等に尊重し合うことに発展する。エロスとアガペーが縦の関係だとすれば、フィリアは横の関係・広がりを示すであろう。これは同性間にも異性間にもなりたつ。自己愛のうちに閉ざされたナルシシズムは、この友愛によって他己愛へと開かれねばならない。現代の社会にたえずきびしく要求されている世界同胞愛や人類愛も、よい人格をもった友人相互になりたつ友愛を完全な愛とし、原動力としてのみ達成されよう(村治)。 仏教においては、愛を肉体的・感覚的な愛と、精神的・理性的な愛との二通りに分けて考える長い歴史を有している。人生についての仏教の古い説明の形式の一つである「十二縁起」の中にあっても、愛は人間存在の原因となる一つの要因と考えられている。その意味では、愛は人間にとって不可避のものともいえるが、仏教ではこの愛をもってそのまま理想へ到達する要因とは考えず、これだけでは動物的存在としての人間に付随する欲望的愛(欲愛)であるとしている。この欲愛を脱して、理想の境地にまで高めるには、愛そのものを真実と一致させなければならない。個人の本能に基づいた愛、広く自と他を愛する愛こそ汚れなき愛(不染汚愛)とされ、これこそ仏・菩薩の愛とされる。この考えはインド仏教の最終形態まで変わらず、理(真理)こそ愛とされていた(金岡)。 哲学事典、著者不明の記述 [希]erōs,philiā,agapē[羅]amor,c(h)āritās[英]love[独]Liebe[仏]amour、愛は精神生活の基本的感情であり、また倫理学史上もっとも重要な概念の一つとされ、とくにキリスト教の影響を多かれ少なかれ受けている西洋哲学においては、ひじょうに大事な意味をもっている。「ギリシア哲学における愛」エンペドクレスは愛philotēs、storgēと憎しみneikosを宇宙生成の原理とした。万物の根である火、空気、土、水の四元を結合させる愛と、分離させる憎しみが交互に優勢支配的となり、世界史の四期が永劫にくりかえされるというのである。プラトンによると愛erōsは善きものの永久の所有へ向けられたものであり、肉体的にも心霊的にも美しいもののなかに、生殖し生産することをめざす。滅ぶべきものの本性は可能なかぎり無窮不死であることを願うが、それはただ生殖によって古いものの代わりにつねに他の新しいものをのこしていくことによってのみ可能である。この愛を一つの美しい肉体からあらゆる肉体の美へ、心霊上の美へ、職業活動や制度の美へ、さらに学問的認識上の美への愛に昇華させ、ついに美そのものであるイデアの国の認識にいたることが愛の奥義である。プラトニック・ラヴはもとこのように善美な真実在としてのイデアの世界への無限な憧憬と追求であり、真理認識への哲学的衝動でもある。しかしプラトンは美しい肉体への愛を排除するものでなく、イデアに対する愛を肉体的なものへの愛と切りはなして考えてるのでもない。「中世哲学における愛」アウグスティヌスは融合和一を求める生活が愛であり、髪に対する愛が人間の最大至上の幸福であるとしたが、こういう考えはアンセルムス、エックハルト、ブルーノ、スピノーザ、ライプニッツ、フィヒテなど多くの哲学者にも受けつがれている。そしてこれは中世哲学、カトリック教会一般を特色づけている見方である。よく知られているように、「愛の宗教」といわれるキリスト教では、愛はあらゆる徳のなかで最高のものとされ、予言より、ロゴスより、知識よりも上位におかれている。そしてそれは神の掟としてつぎの二つに要約される。すなわち神の愛と隣人愛がそれである。神の愛、つまり神を直接の目的として恩寵によって与えられる愛は愛徳chāritāsとよばれ、スコラ哲学でいう精神的愛amor intellectivus、慈善的愛amor benevolenceのうちで最上のものとされている。「近世哲学における愛」スピノーザによるとすべてのものは自己保存の努力conatusをもち、人間は心身をより大なる完全性へ移すこと、すなわち喜びを欲望し、悲しみをさけ、喜びを与える外物を愛し、悲しみを与える外物を憎む。かれは欲望、喜び、悲しみという三つの根本感情から幾何学的にさまざまな愛と憎しみを分析する。ところでわれわれの精神が事物を永遠の相の下に、すなわち必然的連関において認識することは、精神をより完全にする喜びであり、そしてこの十全な認識は事物を神(=自然=実体)の様態として認識することであるから、その喜びは外部の原因としての神の観念をともない、神への愛である。それは神を認識することと一つになっているから「神の知的愛」amor Dei intellectualisとよんだ。カントは傾向性にもとづく感性的pathologischな愛と理性的意志にもとづく実践的praktischな愛とを区別し、後者のみが道徳的とした。傾向性としての愛を命ずるわけにはいかないから、隣人への愛とは、隣人に対するすべての義務をすすんで遂行すること。そして道徳法則への尊敬が、それへの愛に変わるのが道徳的心術の最高の完成であろうとした。ヘーゲルは精神の統一性がそれ自身を感じているのが愛であるとする。愛は一般に、私と他人との統一の意識。愛において私は私だけで孤立せず、むしろ私の孤立的存在を放棄し、自他の統一としてみずからを知ることによってのみ、自己意識をうる愛の第一の契機は私が私だけの独立人たるを欲せず、そういう私を欠陥あり不完全なものと観ずるということ、第二の契機は私が他において自分をかちうること、すなわち私が他者に認められ同じく他者が私においてかれ自身をうるということ。したがって愛は悟性の解きえないもっとも著しい矛盾である。矛盾の産出であり同時にその解除でもある。解除として愛は人倫的結合であるという。ショーペンハウアーは、あらゆる形式の愛が生への盲目的意志に人間を繋縛するものであるとの理由で、愛を断罪する。しかし、その主著には独自の「性愛の形而上学」の考察が含まれている。それいにょれば、愛はすべての性欲に根ざしているものであり、将来世代の生存はそれを満足させることにかかっている。けれども、この性的本能は、たとえば「客観的な賛美の念」といった、さまざまな形に姿を変えて発現することができる。性的結合は個人のためではなく、種のためのものであり、結婚は愛のためにではなく、便宜のためになされるものにほかならない。このショーペンハウアーの性愛論には、現代の精神分析学者フロイトの理論内容を先取りしている部分が数多くある点興味深い。フロイトは性欲のエネルギーをリビドーと名づけ、無意識の世界のダイナミズムの解明につとめたが、とくに幼児性欲の問題は従来の常識的な通念に大きな衝撃を与え、性愛の問題の現代的意味の追求への道を開いた。たとえばD.H.ロレンスの文学は、性愛のいわば現代文明論的な意味の探求を一つの中心課題としているものといってよい。サルトル、ボーヴォワールらの実存主義者たちにも、人間論の中心問題としての愛、性欲の問題への立ち入った究明の試みがみられる。「東洋における愛」中国では墨子の兼愛説、つまり博愛平等の異端的主張が有名であるが、仏教では貧愛(とんあい)・染汚愛(ぜんまあい)と信愛(不染汚愛)の別が説かれる。前者は衆生が解脱しえない根本原因で、十二因縁の一つに数えられる。財欲、名誉欲、色欲などの五欲がそれである。信愛は信心をもって師長を愛するようなもので、貧欲煩悩をはなれて善法を修め衆生を憐<表示不可文字>することである。そのもっともすぐれたものが慈悲とよばれる。日本思想における愛は、いとおしいという心情で、儒仏思想の影響もいちじるしいが、特に山川草木、花鳥風月に対する愛情の強い点は特色といってよいであろう。→愛国心、アガペ(アガペー)、エロス、隣人愛 万有百科大事典 4 哲学・宗教、伊藤勝彦の記述 愛はいつの時代でも哲学の中心課題であった。とりわけ、キリスト教の文化圏にある西洋の国々では、道徳の根本につねに愛をおいてきた。東洋にも「仁」とか「慈悲」とかいう思想があるが、キリスト教的な絶対の愛は説かない。孔子の説く仁は親子兄弟という血縁に根ざす親愛感に発するもので、この感情を無縁の人にまで広げていくことが仁道である。仏教でいう慈は真実の友情で、悲は哀れみ、やさしさを意味する。日本語では慈悲という合成語で一つの観念として表わされる。伊藤整によれば、「他者を自己としてまったく同じには愛しえないがゆえに、憐れみの気持をもって他者をいたわり、他者に対して本来自己がいだく冷酷さを緩和する」というのが東洋的な知恵のあり方で、この考えから、孔子の「おのれの欲せざるところ人に施すことなかれ」という教えがでてくるのだという。他人を自分と同じに愛することの不可能が自明の前提になっていて、そこから相互に相手を哀れみ、いたわりあう愛が生まれてきたというわけである。キリスト教はこの不可能に挑戦し、「おのれのごとく汝の隣人を愛すべし」と命じる。イエスは十字架の死によって、真の愛は自己を犠牲にしなければ達成することができないことをみずから示した。そういう絶対の愛が原型として考えられていたからこそ、常人には不可能と思われる厳しい生き方が命じられたのであろう。ギリシア語では愛は、エロースerōsとアガペーagapēとフィリアphiliaという三つの語によって示される。これらは、愛にとって本質的な三つの位相をそれぞれ指示しているように思われる。エロースは性愛に根ざす情熱的な愛で、プラトンの『パイドロス』でいわれるように、しばしば、狂気の姿を見せ、究極的には一者と合一し、全体に溶けこむことを求めている。地上において肉体的生存を続けている限り、神的なものとの完全な一体化を実現することはできないから、忘我恍惚を求め続けていれば、エロースは必然的に死と結びつく。エロースの哲学者プラトンが生涯、真実在との出会いを求めつづけたあげく、「生より死が望ましい」という一見奇怪な結論に達したのは、その意味では当然のなりゆきであった。中世に生まれた情熱恋愛も、『トリスタンとイゾルデ』の物語に典型的に見られるように、本質的にエロースの愛であった。騎士は貴婦人をまるで神のようにあがめる。それは相手の存在を尊重するからそうするのではなく、単に自分自身の精神的高揚のために相手を利用しているにすぎない。男が情熱恋愛において目ざすのは、霊的存在としての女性のうちに、おのれの個別性を捨てて溶けこみ、これと合一することである。ここから、なぜ情熱恋愛がつねに死にいたる愛でなければならなかったかが説明されるのである。キリスト教的なアガペーの愛は、こういうエロースの愛と根本的に相違する。神と人間との間には、キルケゴールが「無限の質的差異」と名づけたようなものが介在する。だから神と人間との融合も、実体的合一もおこりえない。ただあるのは、神と人との交わりである。神と人とは絶対の深淵によってへだてられていながら、どうして交わることができるのであろうか。そこにこそ、イエスの真の存在意義が認められる。イエス・キリストはいわば、神と人間との中保者であった。神の子イエスがこの地上に人間の肉において生まれたということが、いわば神の愛の唯一の証である。「われわれはイエス・キリストによってのみ神を知る。この中保者がないならば、神とのあらゆる交わりは断ちきられる」(『パンセ』)。そういうアガペーの愛にあっては、自我の神に向かう高まりも、熱狂的解体もない。神と人との間の交わりが可能となるためには、二つの主体が向かいあって存在しなければならない。同様に、人と人とが向かいあって存在することによってのみ、隣人としての愛の交わりも可能となるのである。フィリアの愛も、相互に独立な理性的存在者の間に成りたつ友愛である。アリストテレスによれば、人は「自分自身と同じ考えをもち、同じことがらを望む人」や「自分自身とともに悲しみ、ともに喜ぶ人」を愛するという。つまり、親が子を愛するように、自分自身と等しいものを愛するということでフィリアの愛は結局、利己愛に帰着する。エゴイズムになることを恐れるものは、志を同じくしない者でも、場合によっては、愚者や悪人をもあいさなければならないと考える。それには、フィリアの愛がアガペーにまで高まる必要があるだろう。世俗的な人間の次元にとどまりながら普遍的な愛を実現しようとするのがフィラントローピアー(博愛)の思想である。観念として博愛の理想を説くことは容易だが、神ならぬ身が人類すべての平等に愛することができるはずなく、それを実践していると自称すれば、たちまち偽善におちいる。けっして偽善におちいることのない人間的愛は自己愛的なエロースのみで、フィリアはエロース的要素を失う度合いに応じて、抽象的な、虚偽の愛におちいりがちとなる。こうして、フィリアの愛は、アガペーとエロースの両極の間をゆれ動くことになるのである。
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愛ブルー愛/ジョシュア/ひだまり荘 自分で狩れ 皆様のおかげでLvはさっぱり上がりません^^
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そもそも愛とはなんなのか? 概説 「愛」の意味は、時代とともに多様化してきている。 最初に辞書における語義の説明に軽く触れ、次に、伝統的な用法、各宗教における説明で人々の間に定着している意味を解説し、その後、現代の多様な用法まで、歴史に沿って解説する。 辞典などでの解説、主要な語義 広辞苑では、次のような用法をあげている。 親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり。 男女間の愛情。恋愛。 大切にすること。かわいがること。めでること。 (キリスト教)神が、自らを犠牲にして、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。アガペー。 (仏教)渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。「十二因縁」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる。 ――wikipedia「愛」より抜粋。 近年、よく某巨大匿名掲示板では「愛」という言葉を見るようになった。 「○○愛してる」や「愛・おぼえてますか」などや、「愛」とは少し違うかもしれないが、 「○○は俺の嫁」「○○がかわいすぎて生きるのが辛い」など多数ある。 そこで私はひとつの疑問にたどりついた。 「愛」とは一体なんなのか? 一つの人、物事に愛情を注ぎ続けるのが「愛」? これらはよく三次元ではなく、二次元キャラに向けて言われている。 若者は少し、「愛」というものを軽く見すぎではないのか? 愛とはそう、「love heart」である。 マクロス7には「突撃ラブハート」という歌があるのはご存知だろうか? つまり「愛」というものはFIRE BOMBER。 マクロス7>>>>壁>>>F というのは変えられない事実な訳だったのだ!! ボンバー!!!1 ・この社会に存在している恋愛は、二つの気まぐれの交換と、二つの表皮の触れあいにすぎない。 byシャンテフォール 日本語でおk